昭和45年12月09日 朝の御理解
御理解 第85節
「女の身の上、月役、妊娠、つわりに、腹痛まず、腹帯をせずして、産前、身軽く 隣知らずの安産。産後、よかり物、団子汁をせず、生れた子に五香いらず、母の乳をすぐ飲ませ、頭痛、血の道、虫気なし。不浄、毒断ちなし、平日のとおり。」
御理解 第86節
「女は世界の田地である。世界の田地を肥やしておかねば貴いものができぬ。女は家の家老じゃ。家老がようなければ城がもてぬというが、女がようなければ家がもてぬ。」
これは勿論女性に対する御理解ですけれども、是を金光様の御信者の全てが頂かなければならない御理解として頂きますと、八十六節に女は世界の田地であるとあります。世界の田地を肥やしておかねば、よいものが出来ぬとありますね。女は世界の田地である。世界の田地を肥やしておかねば、貴い物が出来ぬ。貴いものができんと。と言う所からですね、私は思わせて頂きますのに、金光様のご信心を頂く者の全てがね。
私は世界の田地だと思うんです。金光様の御信心頂く全ての人がですね、世界の田地であるという自覚を、私は持たなければならないと思いますね。貴いものが出来ぬと田地を肥やしておかなければと。だからお道の信心させて頂く者が、いよいよ、いわゆる田地を肥やしていくという生き方、でないと貴いものが生れてこない。いわゆる、神恩報謝と言うかね、有り難い、勿体ないというような尊い生き方、尊い生き方、そういう尊い生き方がね、生れてこない。
私は、金光教の信者の全てがね、その自覚に立たなければいけないと思う。女は世界の田地であるとこう仰せられるが、私は、お道の信心を頂いておる者、全てがね、世界の田地であるという自覚です。私は、教祖の神様の生きられ方というのは、そういう生きられ方であったと思うのです。八十五節は、ただ女が妊娠をしたり、また出産の時のおかげを頂くことだけのための御理解として頂けば、これはこれまでの事。
これだけの事でも実は大体、難しい事ですよね。第一腹が痛まず、腹帯をせずして、産前身軽くと言う様な事なんかは、矢張り是は女性の方だけに対する、御理解と頂いても、実は難しいことではなかっただろうかと思いますね。今までは例えば何ヶ月か経ちますと、帯かけのお祝をして、腹に晒一反位をこう巻き付けて腹帯をするですね。そういう、例え事をせんでもよいとこう言うておられるのですから、それを今までの生き方を、ストッと改めて行くということは、やはり難しい事だった。
教祖様のおっしゃる事を信じ、神様を信じなければ出来る事ではない。生まれた子に五香要らず、母の乳をすぐ飲ませと言った様なところなんかも、これは大変、実を言うたら難しい事ではないかと思いますね。不浄、毒断ち、平日の通りなんていう事になったら、いよいよ難しい事なんですよね。女性にとって。ですからやはりここのところを、女性という事ではなくてですね、世界の田地として女は世界の田地と、金光様のご信者が世界の田地としての自覚を持っていくという事もです。
なるほど、そこから尊いものを生みなしてゆく程しの、おかげというものを頂いていくためには、やはりここのところが出来なければならない。今までの考え方ものの見方が全然変ってこなければならない。それは人間的な考え方だという、人間的な考え方を変えなければならない。いや考える事の方が、本当なのだという事が分らなければならない。こういう例えば八十五節に出ております、こういう生き方が本当なのだと。
例えば他の事は私共は分りませんけれども。例えばこの腹帯をせずと言った様な事なんかでもです。腹帯をする事よりも腹帯をしない方が本当な事だと、最近の医学では言っておるそうですね。とにかく小野先生から聞いたことなんですけれど、そう言っています。言うならば、違った事迷うた事を信じておる訳なんです。いわゆる迷うた違った生き方をしておる人の中に、金光様のご信心頂く者がです。
間違いのない生き方をするという事。間違いのない生き方、間違いのない生き方は、ほんなら御理解、ここ八十五節にあるような生き方。ですからなかなか信心させて頂く者、信心する者は、肉眼を置いて心眼を開けと仰るが、確かに心眼を開かせてもらい、御理解を頂いた上にも頂き込んで、なるほどなるほどと合点のいく生き方。いわゆる天地の道理を聞かせてもらい、天地のご恩徳を聞かせてもらい。
生かされて生きておる事実を、本当に生かされて生きておるんだなという事実をですね、身をもって分らせて頂かないと、そういう見方になってこないのです。昨日玄潮が来とりますね。そのちょっと開かせて頂いたところに、金光教の信心の生き方というのは、自主性が無いと。もうなんち言や、神様神様ばっかり言うちから、その自主性が無いといったような質問に対してですね。
私は読んではおりませんけれども、例えば今日私が申しますように、本当な事が分ったらですね、例えば本当のことが分ったらね、神様に願わなければおられんのですよ。言うならば生かされて生きておるという事実が分ったら、この手が自分の手で動いとるんじゃないんだと。自分が言おうとしてもの言うてるんじゃないんだと。という事実がね分ったらね、ものを言わせて下さい、手を動かしさせて下さい、足を運ばして下さいと、願わなければおられんのだ。それが本当な事なんだ。
ただ自主性が無いというような生き方は、なんち言や、神様神様ち言うて、お願いして、いかにも棚からぼたもちが落ちてくる事を願う事のように、金光教の信心を見ておる人は、そういうふうに言う訳なんです。金光教の信心は自主性が無いと。けれども本当な事が分る。天地と私共とのつながりの事が分る。いわゆる関係が分る。親神様と私共の続柄が分る。神様のおかげを頂かなければ、いわゆる、障子一重がままならぬ人の身であるという事実をね、私共が把握したところからです。
本当に一から十まで金光様、金光様、お縋りしなければおられんのである。しかもただ、お縋りするだけではない。お縋りをするその姿勢というものがです、天地日月の心になる事肝要なりと仰せられるようにです。天地日月のそれのようにです私共が間違いのない生き方、いわゆる実意丁寧神信心の限りをです、銘々が尽させて頂くという生き方。そこの所に私共は信心させて頂く者の姿勢、いわゆる実意丁寧神信心。
ただ悲しい時の神頼みとか、棚からぼたもちが落ちてくる様な事を願っておるというのではなくて、こちら自身の在り方自体がです、実意丁寧にならせて頂く。いわゆる、そこから神信心、そこから縋るという事になるのだ。日頃、我まま気ままの生活をしながら、そして困った時に、どうぞ神様おかげを下さい、健康にならせて下さいと言うのとは、だためが違う訳なんです。
その辺が分ってくる時です、私は全お道の信奉者がですね、いわゆる世界の田地としての自覚。私はもう本当にこういう素晴らしいね、自覚と言うかものが出来てくる事のために、私共は、やはり実証者にならなければならないと思うですね。天が父なら地は母だと仰ってます。金光様の信心はどこまでも、その大地の信心をね、承っていかなければならない。いわゆる、土のような信心と言われるわけなのです。
黙って、受けて受けて受け抜いていく、なるほどこれも尊い。けれども、受けて受けて受けぬくだけではなくて、そこからですね、いわゆる、尊いものを送り出していくという働き。尊いものを生みなしていくという働き。そこに、キリスト教のいわば愛とか、仏教の慈悲とは、ちょっと変って参りますね。金光教の信心では、それを神心と、私は言うとりますわけですね。慈悲とか、愛とかと言う心が、人を責めないという心だと、結論すると、言われるそうです。
先日、薬院の先生、ああいう学をなさった方の、しかも勉強されてから、みんなが研究した結果の言葉でしょうね。結論すると、相手を責めないということが愛であり慈悲であると。だから、今、私が言うね、受けて、土の性格と言うかね、受けて受けて受け抜いていくということなんです、いわば。どういう責めなければならないような事でも、責めないで、黙って受けて受けて受け抜いていくと言うこと。それが、仏教であり、キリスト教なのだ。
だから、金光教の信心は、これからが違う。受けて受けて受け抜いていくというのでなくて、そこから尊いものを生みなしていこうという。相手を責めないだけではなくて、その相手に祈りをかけていこうというのである。可愛いものじゃという心なのである。違うでしょうが。相手を責めないと言うだけでも尊い事。黙って受けて受けて受け抜いていく事だって有難い事。けれどもね、受けてですね、受けて受けて受け抜いて、そこから尊いものを生みなしていくというのが、金光様のご信心なんだ。
そこで私は女は世界の田地と仰るが、金光様のご信心させて頂く者はです。世界の田地としての自覚に立って信心をしていけという事になる。でないと例えば和賀心時代などと言う様ないかにその素晴らしい看板をかかげておってもです、そこから生まれてくる和賀心でなからなければならん。世界の市場に出すと例えば偉そうな事を言うてもです。そういう尊いものを生みなして行く所の実証です。
証を立てていかなければならん。金光様のご信心をさせて頂く者には、この様なおかげが受けられるんだという、その証を。それには先ず、私共が勉強しなければならないと言う事。本気で天地の道理を聞かせて貰わなきゃならん。天地の御恩徳を本当に身を持って分らせて貰い、我が身は神徳の中に生かされてある、生かされて生きておる事実をね、私共はハッキリと頂かなければならん。
そこからね所謂、我というものが影を潜めてくる。自分で何が出来るかお前自分で出来るなら、やってみりゃよかたい。と、もし突っ放なされたらですよ、どういう事になりましょうか。お前が出来るなら、いっちょやってみりゃ言いたい、自分でいっちょ、今まで自分でしておる、自分がしておると思うておった、その我がね、いわば、消えてなくなってしまう思いが致します。
神様のおかげを頂かなければ出来ない事実を直視し、それに直面する。その事の事実をです、私共が過去の生き方を詫びていく生き方。そしてそこからあなたのおかげを頂かなければ立ち行かんという生き方。そこにすがらなければおられない、願わなければおられないのである。その願う事すがる事その事が本当の事なのである。どうぞこれからただ今から久留米にやらせて頂きます、願わなければおられんのである。
ただ今からお食事させて頂きます。そしてその事がお礼の対象に。おかげを頂きましてただ今久留米から帰らせて頂きました。ただ今おかげを頂きまして、食事を美味しゅう頂く事が出来ましたと、お礼を言わなければおられないのである。それが本当の生き方なのである。そういう生き方を実意丁寧な生き方というのである。すがっていく事が、神信心なら、そういう生き方が実意丁寧なのである。
横着がない我ままがない偉そうな所がない。どこまでもへりくだった姿勢である。素晴らしいでしょう、金光様の信心は。私は今日の御理解を頂いて下さったら、改めてもう一遍ですね、金光様のご信心が、この様にも尊いものであるという事を自覚してです。その自覚に立って尊いものを日々、産みなして行く所の働きになる、所謂証を立ててゆく生き方を、日常生活の上に打ち立ててゆかなければいけない。
俺がせんならん、自分でというておるその生き方の、本当に浅ましい事ね。そしてもしそれが出来ると、ほら俺がしたと言うて、すぐ天狗になる。俺ががまだし出ぇたっぞという事になる。私は金光様のご信心は、本当に私どもがね、ほんとに世界の田地である私共であるという自覚。天が父なら地が母と仰るから、いわゆるその母体尊いものが産みなされてくるところの母体、それが金光様のご信者じゃなからなければならない。
のにも拘らず果たして金光様のご信心がでたい、只お取次を頂いてお願いをすると。おかげを頂くその訳知らずにただお願いをして、御利益を頂くという事だけだから私は周囲から、金光教の信心は自主性がないと言う様な非難があるのじゃないかと思います。消極的だと積極性が無い、自主性が無いというふうな非難が起きてくる。ところがそんなだんのこっちゃない。
任せるとか縋るとかこう申しますが、その縋り任せるという事が、どの様にも実を言うたら難しい事か。そこん所を例えばここに腹帯をせずとか不浄毒断ちなし、平日の通りなどと言う様な、まあ厳しい事の様に聞こえる訳ですね。今まではそうでなかったから。今までは腹に妊娠したら腹帯をする事が当り前と思うておったから。けれども本当の事が分ったら、そうする事が本当であるという事が分る。
本当におかげを受けられますよ、教祖のおっしゃる事をですね、勇気を出してですね、それを素直に受けて参りますと。けれども、そこには非常に勇気が要る。日頃勉強して、それが分っとかなければならん。私は昨日ある事でこれは一口それこそ言うとかにゃいくまい、ここんところはちょっと、教育の意味合いにおいてでもです、一口言うとかにゃいくまいと思うような事があった。
そしたら神様がすぐお知らせを下さったのは、「味」という字を下さった。味の素の味という字。口を書いて末と書いてありましょう。昔から諺に「言いたい事は明日言え」というような事を申しますね。昔の人はよう良い事言うてますよ。是だけは一口言うとかにゃん、と言う様な事がありましょうが。場合には、言い訳の事もある。教育のために言うといったような事もある。
又是はいっちょ教えとかにゃんといった様な場合もある。けれどもねそう言う様な一口言うとかにゃと言った様な、感情のある時にはね、一つそれをこらえて明日言えというのである。あくる日。あくる日は言わんで済む事が多いのである。あくる日になっても、まだ言うとかにゃという時には、もう一日待ってみたらいい。言わんで済むのである。その辺がね、お道の信心いわゆる、私共が世界の田地であるという自覚、黙って受けていくという自覚、ただ受けるだけではな。
、そこから相手の事が祈れると言う事なのである。私はその味という字を頂いてですね、はぁ口が末と書いてあるから、所謂まぁまぁ言う事は後からと。時間が経ってから言えという事であると、こう思うたですね。それから間もなくです。はぁ言わんでよかったというおかげになってきとるです。所謂味わいというものですね。成程言わんで済む事が、この様にも有難い味わいになってきた訳なんです。
勿論言う事は後からとか、だからそこん所が、只言わんで辛抱しとくだけではなくて、そこから祈らして頂くという事になってきた。いわゆる世界の田地であるというですね。まぁ、大きい事を言う様ですけれども、自覚に立ってです、黙って受けて黙って祈るという事なんである。言う事は末の事だ後からだというのです。もう本当に一時間も待つ事はいりませんでした。その味わいを感じたのは。
なるほどなぁと、私は、これはもう度々の事ながら、それを思わせてもらうのです。些細なそういう事の中にあっても。金光様のご信心とはね、そのようなおかげが、すぐそこには、伴うておるのですよ。教祖の教えて下さる事。腹帯をせずと、これはもう、ほんなこて、今まで長年こりゃ習慣にせにゃいかんごとなっとる事をね、するなと仰りゃ、ハイと素直に言えれる、その心には、勇気がいるという事なんです。
そん時言うた方が楽なって、言うなとおっしゃるから言わんという事に、素直にならなければ出来ないですよね。そういう生き方をですね、第三者が見ておるとです、非常に消極的なようにあるわけです。所謂金光教の信心は、所謂自主性が無いと言う様な事にも見えるのです。けれどもねそんなら、例えば相手の事を、自分が言うて聞かせて、どれだけの事がさせ得れるかという事なんです。本当の事が分ってくる。
神様のおかげを頂かなければ出来る事ではない事が分るから、それが出来るんだ。だから、金光教の信心はね、自主性が無いなどというような事ではなくてです、実を言うたら本当の意味においての自主性を重んじておるという事になるのですよ。金光教の生き方は消極的だと。それはそうですよね、金光様の先生なんか、よそへ出られしません。黙って、祈って、願っておるだけなんですもの。
例えばほんなら私の幹三郎が、あのようにおかげを頂いて、もう一ヶ月とちょっとばかり入院させて頂いておる。だから私が行ってです、御理解の一口も聞かせてやりたい。そういう事はね、いわばあそこに難儀な人があるから、いわば○○教の先生等はそこへ行って、そこで病人の枕元でお道の話を説き、信心の話を説いて、助けていこうという生き方なんだ。ところが金光教の信心は、そうじゃないでしょうが。
御結界所謂畳半畳に座り込んでおいて、ただ祈って祈ってという事だけなんです。だから非常に消極的なようです。けれどもね、それはねもう祈るだけでなくて、もうままよという心、それは死んでもままよという心なのですから。もう超積極的なんですよ金光様のご信心は。ほんなら自分の子供の、例えば病気の容態を日々聞かせて頂いて、聞くだけじゃないやっぱり実際この目で確かめてみれば、安心もいくだろう。
まあ言うて聞かせる事もあるだろうと。これはやっぱ人情として思わん事はない、思います。だから、幹三郎からの、その言付けに、「僕と会うのがいけんのなら、このおかげ頂いとる部屋だけでも見に来て下さい。九日の日にはとにかく御本部参拝げなから、ここの横を通られるから、ちがわん、そん時には、お父さんが絶対来て下さる」と、家内に言うたというのです。
私はそう言われたから行った訳じゃないけれども、昨日午前中、ちょうど高橋さんが切符を買いにおいでられる、繁男さんと二人で。それに便乗させて頂いてから参りました。それは私がね、消極的になったからじゃないです。御本部参拝させて頂いて、金光様に、どういうお届けをさせてよいか、いわばその実態を見て来たかったから。金光様にこうこうかくかく、おかげ頂いとりますというのを見て、お取次ぎを頂きたかったから、行きました。もうそれこそ、涙を流して喜びました。
別にそして、なぁにも言う事はないけれど、そいで、繁男さんと高橋さんは、すぐ駅の方へ行かれましたから。私は体が非常にきつかったから、きついと言ったら、「お父さん、僕のベッドで休すんで下さい」と、こう言う。けれども、「あんたが休みなさい、私はなら下で休むから」と言うて、私は、家内の布団敷いてから、二人が帰ってみえるまで、休ませて頂きました。
寝げ行ったごたる事じゃ。別にどうという事は、なぁにもない。ただ、その様子を、いわば十日の御本部参拝に、金光様に、いわゆる実感をもってお礼を申し上げさせて頂く事のために、ただ行っただけの事なのですよね。しかし、本当におかげ頂いてから、あれなんですけれども、今日、行ったら、「僕は今度、金曜の日にはもう退院が出来るごたるふう」ち。「金曜ちは何日なるの」ち言うたら「十一日」ち言う。
そすと御本部から帰ってからち言いよったら、帰る日にということになる所でしたけれど、おかげで、そのようにおかげを頂いております。ほんなら例えば、この幹三郎の事だけだってです、私がただ、黙って受けるだけではなくて、昨日の御理解じゃないけれども、その受けるところからです、尊いものが生みなされてくるというところに値打ちがあるのです、金光様のご信心は。
いわゆる、九死に一生を得て、おかげを頂いた。広大なおかげを頂いたというだけではね、それはいうなら、仏教もキリスト教もあんまり変らんです。金光様の御信心な、そこから、そこから尊いものが生まれてくると、こう仰る。女は世界の田地である。世界の田地を肥やしておかなければよいものが出来ん、尊いものができんと、こう仰っておられる。私共はおかげ頂いて。
肥やすという程の事は出来とらんけれども。常日頃そこんところを肥やしてきておったから、私は尊いものがこれから生まれると思った。しかも黙って、受けて受けて受け抜かせて頂いて、その受け抜かせて頂く、そこから、尊いものが生まれてくる。そういうおかげの実証をです。証を立ててゆくという日々になりたい。それにはお互いがです、全お道の信奉者がです、男も女も老いも若いもです。
全部世界の田地であるという自覚に立たせて頂いて、その世界の田地を愈々肥やさせて頂く時であると分らせて貰い日々の中に、先ほど申しました、小さい茶飯事の中にあってもです、黙って受けるだけではなくて、黙ってそこから良いものが生まれてくる働きになってくる信心、それを実意丁寧神信心だと言う風に、今日は聞いて頂きましたですね。
どうぞ。